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1400有余年前の推古天皇の時代、聖徳太子が勝鬘経、法華経などを天皇に講じられ、これに御感あった天皇より播磨国の水田を賜り、太子はこれを仏法興隆のため法隆寺に寄進されました。
※『日本書紀』によると、寄進の時期は推古14年(606年)7月、水田の規模は100町、『聖徳太子伝記』では同じく、太子44歳御時、360町とある。諸文献に諸表記がある。
後の平安時代に、この地は法隆寺の荘園「法隆寺領播磨国鵤荘(いかるがのしょう)」へと発展し、その中心に荘園経営の中核的存在として、政所とともに斑鳩寺が建立されました。
この創建以後、鵤の地はながく、この地方の太子信仰の中心としても栄え、播磨の国の中における特異な文化興隆地域を形成することになりました。
播磨鑑(平野庸修作)によると、宮本武蔵が太子町宮本村で生まれたという記載があります。
また、晩年の武蔵を知る唯一の自筆資料「五輪書」には、武蔵自らが「生国播磨の武士」と記しています。武蔵は、龍野の脇坂藩、赤穂の浅野藩などに多くの弟子を持ち、円明流の指導をしていたという史実があります。また、写本ではありますが、江戸時代の講談本で「武蔵と小次郎」の葛藤を題材にしたものが残っています。それは、姫路を舞台として描かれており、原田夢果史著「真説宮本武蔵」には、「武蔵は大坂冬・夏の陣で大坂方として徳川と戦い、大坂城が落城した後、閑居した地がここ、宮本村ではないか?」と述べられています。